049★大和高取城/復元城郭模型

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通称 芙蓉城、鷹取城、高取山城
城郭構造 連郭式山城
天守構造 連立式3重3階地下1階(非現存)
築城主 越智邦澄
築城年 元弘2年(1332年)
主な改修者 筒井順慶、本多利久
主な城主 越智氏、筒井氏、本多氏
植村氏
廃城年 明治6年(1873年)
遺構 石垣、堀、井戸など多数
指定文化財 史跡(国指定)
再建造物 なし

■高取城の特徴
■標高の高い山城であるが近世の施設がある
戦国時代以前の山城は山上の要害に築かれているが、近世になるにつれ小高い丘や平地の中心部に居城が移されるパターンが多いが、高取城ののように山城のまま石垣、天守、櫓、門、殿舎まで築かれた例は少ない。これは火災や風雨、山上の不便さから再築されることは少なかったためである。しかし、高取城は3代将軍家光より「一々言上に及ばず」という許可があり、それで江戸時代を通じて各建物の存続と完備ができたとしている。
■縄張と虎口の構成
高取城の縄張りは山城であるにもかかわらず、広い敷地をもち連郭式縄張りと言われている。高取城は標高が高い場所に築城されているわりには、天守、櫓、門等の多くが建設される余裕があり、平山城と同じような構えを持っている。また不等辺台形の隅部に三重天守、小天守、二重櫓を配し周囲に多聞櫓を巡らしている点は和歌山城と類似する。これは羽柴秀長が3カ国の太守となり、和歌山城には桑山重晴、抑えの城として高取城には本多利久と自らの家臣を置いたため、共通性が考えられている。
■天守と小天守が建てられている
山城に天守がある例は日本国内ではいくつかあったが、小天守まである例はほとんどない。例えば洲本城には、天守に小天守台はあったが、小天守台に小天守が建てられたかは不明である。そもそも山城は眺望が優れており、近世の山城には天守すらない例があるが、高取城は「三重天守」以外にも一回り小さな「三重小天守」まである。築城時期は明確ではないが、本多利久から植村氏が入るまでと推定されている。
■櫓の数棟が多く、独特の名称が多い
高取城は櫓の数が多い。三重櫓は、天守、小天守を含めると6棟、二重櫓が7棟あり、白漆喰総塗籠で、姫路城に似た外観であったと考えられている。また、鐙櫓、具足櫓、十方矢倉、火之見櫓、客人櫓、小姓櫓など、独特の櫓名があるのも高取城の特徴であると指摘している。
(フリー百科事典より引用)

048★江戸城・本丸御殿大奥/復元城郭模型

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通称 千代田城
城郭構造 輪郭式平山城
天守構造 連立式層塔型5重5階地下1階[出典 1](1606年築)
独立式層塔型5重5階地下1階(1621年再)
独立式層塔型5重5階地下1階(1635年再)
(いずれも非現存)
築城主 太田道灌
築城年 1457年(長禄元年)
主な改修者 徳川家康、秀忠、家光(江戸期)
宮内省・宮内庁(明治以降)
主な城主 太田氏、後北条氏(戦国期)
徳川将軍家(江戸期)
天皇家(明治以降)
遺構 現存櫓・門、石垣・土塁・堀
指定文化財 国の重要文化財(桜田門、田安門
清水門)
再建造物 富士見櫓、伏見櫓・多聞櫓
桜田巽櫓、和田倉門
位置 北緯35度41分17.97秒
東経139度45分15.72秒

047★三崎城/復元城郭模型

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三崎城(みさきじょう)は、現在の神奈川県三浦市に存在した城。別名・新井城(あらいじょう)。相模三浦氏の本拠地で後に後北条氏が領する。

従来、後北条氏関連の史料などから新井城と三崎城は別の城と考えられてきたが、近年では相模三浦氏時代には三崎城として単一の城を構成しており、後北条氏が同城の海側の部分を改築して独立した水軍城砦とした時に旧城である新井城と新城である三崎城に分けられたと考えられている。

伝承によれば、鎌倉時代後期の三浦氏宗家滅亡後に相模三浦氏を興した佐原盛時が築城したとされているが、実情は不明である。恐らくは元は同氏の水軍基地の一つであったと考えられている。

戦国時代初期に三浦義同が伊勢盛時(北条早雲)に城を囲まれて3年にわたって篭城戦が繰り広がれたが、ついに陥落して相模三浦氏は滅亡した(新井城の戦い)。その後、盛時(早雲)によって大規模な改築が行われて安房の里見氏に対する備えとした。実際に新井・三崎の両城は何度か里見氏によって攻め落とされて三浦半島南部が里見領になった時期もある。後に盛時(早雲)の孫の北条氏康がこの地を奪還すると、息子の氏規を三崎城主とした。

もっとも、最前線とは言え、城ヶ島に近い風光明媚な場所であったため、平時には後北条氏当主が静養を兼ねて三崎を訪れたらしく、1519年には盛時(早雲)が、1565年には氏康がここを訪れている。

豊臣秀吉の関東平定後に廃城となった。
(フリー百科事典より)

046★佐賀城本丸御殿/復元城郭模型

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佐賀城はもともと龍造寺氏が居城としていた村中城を改修・拡張したものである。九州北部に覇を唱えていた龍造寺隆信は天正12年(1584年)に島津・有馬連合軍に敗れて戦死した。これを機に龍造寺家臣の鍋島直茂が実権を握った。

直茂は早くも、天正13年(1585年)には村中城改修を計画している。しかし未だ当主であった龍造寺政家の居城であり、直茂は蓮池城が居城であったため、主家に憚って計画には手を付けなかった。計画が実現したのは江戸幕府政権下で正当に佐賀藩主として認められた後の、慶長7年(1602年)本丸の改修を始めてからである。直茂の計画に則り、次の藩主鍋島勝茂が慶長16年(1611年)に完成させた。内堀の幅は80mにも及ぶ広壮なもので、5層の天守も建造された。また、元和の一国一城令でかつての居城蓮池城は破却された。

城は幾度も火災に見舞われた。特に享保11年(1726年)には大火に見舞われ、天守以下本丸建造物の大半を焼失した。これにより御殿などが享保13年(1728年)に二の丸に完成し、藩政は二の丸を中心に行われた。更に天保6年(1835年)の火災では二の丸を焼失。これにより再び本丸再建が行われ政務は本丸に移った。現存する鯱の門・続櫓はこの再建時の天保9年(1838年)に完成したものである。同時に立てられた本丸御殿は、明治維新以後、裁判所や学校として利用された。なお、天守は享保の火災以後再建されていない。
(フリー百科事典より)

028★前田利家時代の金沢城

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http://blogs.yahoo.co.jp/katuuya2013/26807166.html
金沢城は一度完成(画像:3)していたのですが、時代を考えリメイク
いたしました。

テーマは「前田利家時代の金沢城」です。
慶長4年(1599年)金沢城は一応完成し、天守もできていました。
その年に前田利家は亡くなっていて、翌年1600年関ヶ原の合戦。
1602年金沢城天守落雷焼失。1603年徳川幕府開府。そして
金沢城天守は復興されず変わりに御三階櫓が再建されました。
つまり天守を作ると金沢城の1599~1602年の間だけとなり、
有名な鉛瓦も海鼠塀もまだ存在していないことになり、黒の板張りに
囲まれたいわゆる織田豊臣期の城となります。 それで時代を合わせる
為に今回のリメイクを行いました。

045★明石城/復元城郭模型

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明石城(あかしじょう)は日本の城。所在地は兵庫県明石市明石公園。旧明石藩の政庁と藩主の居所が置かれた。別名、喜春城(きはるじょう、きしゅんじょう)、錦江城(きんこうじょう)とも呼ばれる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%9F%8E

明石市第1回プラモデル甲子園参加作品です。
http://www.geocities.jp/akashi_plamo/

チョロチョロ隼人さんブログより作品紹介。
http://blogs.yahoo.co.jp/momonakai/15798342.html

★リメイクを行いました。変更点は・・・・
石垣の大きさの変更と石垣の塗装色の変更。
堀の水の色の変更。
樹木取り付け。
二の丸御殿の屋根の色の変更。
本丸御殿の追加。

043★島津・鹿児島城/復元城郭模型

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鹿児島城(かごしまじょう)は、鹿児島県鹿児島市城山麓にあった城である。鹿児島では一般的に古くから「鶴丸城」(つるまるじょう)と呼ばれている。「鶴丸」の呼び名の語源は島津家の家紋が「鶴丸の紋」であったことによる。城跡は鹿児島県史跡に指定されている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E5%9F%8E

042★柴田勝家・北ノ庄城/推定城郭模型

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■柴田氏北ノ庄城
朝倉氏の滅亡後、越前を支配していた一向一揆を平定した功績によって、越前国北ノ庄を与えられた柴田勝家が、天正3年(1575年)に自らの縄張りによってを築城を開始する。同11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに勝家が敗れ、妻お市と共に自害すると城にも火が放たれ、建造物のほぼ全てが焼失することになるが、その後も青木一矩が北ノ庄城に封じられたという記録が残っている。1601年より柴田氏の北ノ庄城の跡地に、新たに結城氏によって北ノ庄城が築城されたため、現在では柴田氏の遺構を見ることは出来ない。

平成5年(1993年)から6度にわたるの発掘調査の結果、本丸の推定位置である柴田神社の地下から、石垣の跡と思われる石が出土したが、本丸の正確な位置を完全に特定するまでには至っていない。

城は足羽川と吉野川(のちの百間堀)が合流した位置に築かれ、堀の一部に足羽川を使用していたと推定されており、天守は7層(一説には9層)構造で、安土城に匹敵する巨城であったと伝えられている。

柴田時代の建築をしのばせる史料として、宣教師のルイス・フロイスが天正9年(1581年)に北ノ庄を訪問したときの記録があるが、それによると「城及び他の屋敷の屋根が全てことごとく立派な石で葺かれており、その色により一層城の美観を増した」とある。この「石」とは、城に程近い足羽山で産出される笏谷石のことであり、現在発掘調査で見出された柴田時代の石垣は笏谷石であるし、北ノ庄城とほぼ同時期に勝家の養子、柴田勝豊によって築城された丸岡城の天守も笏谷石製の石瓦で葺いている[1]。また、町の規模が安土の2倍ほどもあること、勝家によって足羽川に架橋された九十九橋についても言及がある。次に、勝家を攻め滅ぼした羽柴秀吉が戦後間もない天正11年4月25日に毛利氏の重臣・小早川隆景に送った書簡には、「城中に石蔵を高く築き、天守が九層」であった旨の記述がある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E3%83%8E%E5%BA%84%E5%9F%8E