模型コンテスト入賞及び入賞作品展示中

イメージ 1

イメージ 2

2011年11月12~13日にスーパーキッズランド第6回プラモデルコンテストが
あり、なんと出品作品が童友社賞に入賞いたしました。

関連の記事はもうひとつのブログで先日更新しておりますが、
嬉しかったのでこちらにも記事しました。
http://blogs.yahoo.co.jp/katuuya2012/28265103.html

また入賞の副賞はラジコン製のヨット。

入賞作品は現在、大阪のスーパーキッズランドに飾って頂いております。

仔細はもうひとつのブログをご覧下さい。

056★長浜城 /羽柴秀吉期・長浜城復元城郭模型

イメージ 1

イメージ 2

通称 今浜城
城郭構造 平城
天守構造 不明(鉄筋コンクリート造模擬)
築城主 羽柴秀吉
築城年 1573年
主な改修者 伊部町組(現在の元浜町)
大工 藤岡一門  
主な城主 羽柴氏、柴田氏
山内氏(一豊系)、内藤氏(信成系)
廃城年 1615年
遺構 石垣、堀
指定文化財 なし
再建造物 模擬天守

1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。小谷城で使われていた資材や、あらかじめ、竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用し築城を開始した。

同3・4年頃完成し入城。湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した。そのため、現在でも城下町には当時の面影や名残がある。秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所でもある。 本能寺の変後、清洲会議で長浜の支配権を獲得した柴田勝家の甥の柴田勝豊が入城するも、まもなく勝家と対立した秀吉に攻められ落城した。賤ヶ岳の戦い後は、山内一豊が6年間在城し、内藤信成・信正が城主になるが1615年(元和元年)に廃城になり資材の大半は彦根城の築城に流用された。彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられている。その他、長浜市内にある大通寺の台所門は長浜城の大手門を移したものと伝えられ、今でも矢尻の跡が残っているを見ることができる。同市内にある知善院の表門は、長浜城の搦手門を移したものと伝えられている。

現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので市立長浜城歴史博物館として運営されている。

フリー百科事典より転記

055★諏訪高島城 /復元城郭模型

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

通称 諏訪の浮城、島崎城
城郭構造 連郭式平城
天守構造 独立式望楼型3重5階(1598年築 非現存)
(1970年 RC造復興)
築城主 日根野高吉
築城年 文禄元年(1592年)
主な改修者 諏訪忠粛
主な城主 日根野氏、諏訪氏
廃城年 明治8年(1875年)
遺構 石垣、堀、門
指定文化財 なし
再建造物 天守、櫓、門、塀

★概要
かつては諏訪湖に突き出した水城で「諏訪の浮城(すわのうきしろ)」と呼ばれていたが、江戸時代初めに諏訪湖の干拓が行われ、水城の面影は失われた。しかし、浮城の異名を持っていたことから日本三大湖城の一つに数えられている。

日根野氏によって総石垣造で8棟の櫓、6棟の門、3重の天守などが建て並べられ近世城郭の体裁が整えられたが、軟弱な地盤であったため、木材を筏状に組み、その上に石を積むなどの当時の最先端技術が用いられた。それでも石垣が傷みやすく、度々補修工事を加える必要があったという。7年間の短期間で築城したため、かなり無理をしたらしく、地元では「過酷な労役に苦しんだ」「石材を確保するため、金子城の石材は全て持ち出したほか、墓石、石仏も用いられた」などの伝承が残る。

★歴史
中世、諏訪氏は現市街地北方にある茶臼山に高島城(茶臼山城)を築いて居城とした。諏訪頼忠は、平城の金子城(諏訪市中洲)を築き、新しい拠点としたが、1590年(天正18年)に諏訪頼忠が武蔵国奈良梨に転封となり、代わって日根野高吉が、茶臼山にあった旧高島城に入城する。

高吉は、1592年(文禄元年)から1598年(慶長3年)にかけて、現在の地である諏訪湖畔の高島村に新城を築く。その際村人には漁業権や賦役免除権などの特権を与える代わりに小和田へ移転させた。高吉は織田信長、豊臣秀吉の下で普請を経験していたことから、織豊系城郭として築城し、石垣を築いて天守も上げた。

1601年(慶長6年)日根野氏は下野国壬生藩に転封となり、譜代大名の諏訪頼水が2万7千石で入封。再び諏訪氏がこの地の領主となり明治維新まで続くこととなった。江戸時代は諏訪藩の政庁であり藩主の居所であった。1786年(天明6年)に石垣などが補修されている。

寛永3年(1626年)には徳川家康六男の松平忠輝を預かる。南の丸を増設し、監禁場所とした。以降も南の丸は、幕府から預かった吉良義周などの流人の監禁場所となる。

1871年(明治4年)廃藩置県により高島県となり、県庁舎として利用された。1875年(明治8年)に天守以下建造物は破却もしくは移築され、一時は石垣と堀のみとなり、翌1876年(明治9年)高島公園として一般に開放され、1900年(明治33年)に諏訪護國神社が建てられる。

現在は二の丸、三の丸が宅地となり、1970年(昭和45年)には本丸に天守・櫓・門・塀が復元され、高島公園として整備された。

★建物:天守
天守は独立式望楼型3重5階で、明治初頭に撮影された写真にその姿がうかがえる。初重を入母屋の大屋根とし2重の望楼がのせられた形状で、2重目の東西面に入母屋破風出窓、3重目には南北面に華頭窓をもつ切妻破風出窓と東西面に外高欄縁が設けられた。各所に華頭窓が用いられ、屋根は瓦葺ではなく檜の薄い板を葺く柿葺であった。

現在の復興天守は窓の大きさや位置などの細部が異なり、屋根には銅板が葺かれており、内部は資料館となっている。

★遺構:二の丸三の丸は開発の手が入ったが、本丸は高島公園として整備され、本丸の石垣および北側と東側の堀が残る。

建造物としては、三の丸にあった城門が本丸に、どこの門か定かではないが温泉寺および浄光寺の山門として、それぞれ移築現存する。また、能舞台が温泉寺本堂の一部として移築されている。

フリー百科事典より転記

054★佐倉城 /復元城郭模型

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

通称 鹿島城
城郭構造 連郭式平山城
天守構造 御三階櫓(独立式層塔型3重4階 1616年 非現存)
築城主 鹿島親幹
築城年 天文年間か
主な改修者 千葉邦胤、土井利勝
主な城主 鹿島親幹、千葉邦胤
土井利勝、堀田氏
廃城年 1873年(明治6年)
遺構 堀、土塁
指定文化財 佐倉市史跡

佐倉城は、鹿島山の西端部に築かれ、西側と南側を囲みこむように鹿島川とそれに合流する高崎川が流れ北側には印旛沼に至る低湿地が広がっていた。 戦国時代、本佐倉城主千葉親胤が大叔父にあたる鹿島幹胤に命じて築城を開始したが、親胤が暗殺されたために工事は中止され、千葉邦胤の代にも工事が試みられたものの今度も邦胤の暗殺によって完成することはなかった。だが、いつしか築城予定地には鹿島親幹にちなんで「鹿島台」と呼ばれるようになったという。

1610年(慶長15年)に、徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城が再開され、ついに佐倉城が完成した。江戸時代は佐倉藩の藩庁が置かれた。城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、なおかつ初期は城主の入れ替わりが多く、江戸初期に城主であった堀田正信(後に改易されている)の弟・堀田正俊の孫・堀田正亮が11万石で再入封(後期堀田氏ともいう)してからは、安定した藩の経営を行っている。

城郭は比較的質素で石垣を一切用いず、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にし、三重櫓(御三階櫓)を天守の代用としている。このようなケースは関東地方を領した、要衝を預かる城郭を除き、川越城や古河城などの譜代各藩の城にみられた。

しかし明治維新後に廃城令により建物を撤去。その後帝国陸軍歩兵第2連隊、後に歩兵第57連隊(通称・佐倉連隊)の駐屯地となったため、更に佐倉城の名残は消し去られてしまった。1962年(昭和37年)3月28日市の史跡に指定され、現在は跡地に佐倉城址公園が建てられており、その一区画に国立歴史民俗博物館が建っている。

フリー百科事典転記

053★萩城 /復元城郭模型

イメージ 1

通称 指月城
城郭構造 梯郭式平城、山城(指月山)
天守構造 複合式望楼型5層5階(1608年築・非現存)
築城主 毛利輝元
築城年 慶長9年(1604年)
主な城主 毛利氏
廃城年 明治7年(1874年)
遺構 長屋、石垣、堀
指定文化財 国の重要文化財(厚狭毛利家長屋)
国の史跡
再建造物 土塀

日本海に張り出した指月山の詰の丸(実際は二の丸と本丸)と、その山麓に梯郭式に本丸・二の丸・三の丸を配し3重の堀を巡らした平山城であった。厳密には、指月山の詰の丸と山麓の城は独立したものであり、平山城ではなく平城と山城であるとする見解がある。また、海に突出しているため、海城であるという見方もある。

天守は複合式望楼型5層5階で、赤瓦葺で初層を天守台より大きく張り出させた張出(はりだし)という構造が採用され、最上階には外廻縁高欄や華頭窓があった。明治7年(1874年)前年に発布された廃城令により櫓など他の建物と共に破却され、石垣のみが現存している。現存していた頃の姿は解体前に撮影された古写真でのみ見ることができる。近年では破却された天守など建物の復元を行う動きがあるが、財源の問題で難しくなっている。

現在は指月公園(しづきこうえん)として整備され、旧城の入り口には旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(国の重要文化財)が現存し、松下村塾や侍屋敷などとともに萩市の観光名所となっている。また、指月山の原生林は、国の天然記念物に指定されている。

戦国時代
指月山に津和野城主・吉見氏が出城を構え、のちに吉見正頼の隠棲所となった。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで西軍総大将となった毛利輝元は敗戦により120万5000石の太守であったが隠居を命じられ、家督を継いだ秀就は防長2国36万9411石余に減封された。

江戸時代
1603年(慶長8年)幼少の秀就に代わり、輝元は後見役として萩・山口・三田尻(防府市)の3ヵ所を城地の候補とし、幕府に裁可を求めた。これに対し幕府は、海に臨み要害の地である萩が良いとの回答をしている。これは外様大名の雄、毛利氏を山陰の僻遠地に押し込める政策とも言われている。
1604年(慶長9年)萩城建造に着手。指月山に連なる干潟を埋め立て、城地を建造した。
1608年(慶長13年)落成。平時に建設された城ではあるが、指月山に詰の丸を配するなど、戦時を意識した構えとなっている。
1863年(文久3年)時の藩主・毛利敬親は幕府に無許可で藩庁を山口政事堂(山口市)に移し、萩城は藩庁としての役目を終えた。

052★福岡城・幻の天守閣

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

通称 舞鶴城、石城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 不明
築城主 黒田長政
築城年 1601年
主な改修者 黒田長溥
主な城主 黒田氏
廃城年 1871年
遺構 櫓4棟・門3棟、石垣、堀
指定文化財 国の重要文化財(多聞櫓・二の丸南隅櫓)
国の史跡
福岡県文化財(潮見櫓・大手門・
祈念櫓・母里太兵衛邸長屋門)
福岡市文化財(名島門)
再建造物 二の丸北隅櫓、大手門

慶長5年(1600年)黒田孝高・長政父子は関ヶ原の戦いの功績により豊前国中津16万石から、一躍筑前一国52万3千石を得て名島城に入城した。便宜上から名島城を廃し、福崎丘陵(現在の舞鶴公園・福岡城跡)を新城候補地に選定した。慶長6年(1601年)には築城が開始され、7年後の慶長12年(1607年)に竣工した。

江戸期に数度の改修が行われたが、特に幕末の嘉永・万延年間に大改修が行われた。

福岡城は福岡市の中心部に位置する梯郭式平山城である。普請奉行は野口佐助一成である。城地とされた福崎丘陵(那珂郡警固村福崎)は、博多と那珂川を挟んだ西側にある。主に、本丸を囲むように二の丸、その外に大きく三の丸が配され、47の櫓を配し縄張りの範囲は約25万平方メートルに及ぶ。東側に那珂川を以って堀とし、また西側の干潟「草ヶ江」を大堀として活用した。この大堀は現在大濠公園として整備されている。城下町は城の北側(博多湾側)に開かれた。

築城の際に、福崎を黒田家再興の地である備前国福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)の地名にちなみ「福岡」と改めている。

熊本の加藤清正もこの城を評価している。特に一成が指揮した石垣から、別名「石城」とも呼ばれる。

現在、城跡には門・櫓が現存し、多聞櫓とそれに続く二の丸南隅櫓は国の重要文化財に、潮見櫓・大手門・祈念櫓・母里太兵衛邸長屋門が福岡県指定文化財に、名島門が福岡市文化財にそれぞれ指定されている。また、多聞櫓に続く二の丸北隅櫓が復元されている。

051★長篠城・長篠合戦図屏風3D

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

■長篠城(愛知県)
通称 末広城、扇城
城郭構造 平城
天守構造 なし
築城主 菅沼元成
築城年 永正5年(1508年)
主な改修者 奥平信昌
主な城主 菅沼氏、奥平氏
廃城年 天正4年(1576年)
遺構 曲輪、土塁、空堀、石垣
指定文化財 国の史跡(城跡の一部)

長篠城(ながしのじょう)は、三河設楽郡長篠(愛知県新城市長篠)にあった城(平城)。現在は国の史跡に指定され、城跡として整備されている。天正3年(1575年)の長篠の戦いに先立つ長篠城をめぐる激しい攻防戦で知られる。

永正5年(1508年)
今川氏親に誼を通じた菅沼元成が築城。元成と、その子孫・長篠菅沼氏が居城とする。

元亀2年(1571年)
徳川家康に服属していたが、武田軍による三河侵攻の一端で、天野景貫に攻められる。攻守双方の払った犠牲は大きかったが、陥落だけは免れた。その後、菅沼総領家・田峯菅沼氏から遣わされた使者の説得を受け、城主であった元成の直系玄孫・菅沼正貞は、心ならずも武田軍の圧力に屈した。

元亀4年(1573年)
前年末から続いていた武田軍の西上作戦が春には切り上げられ、武田軍は本国へ撤退。その間隙を徳川家康によって攻められる。城主・正貞は天正元年8月(1573年)には開城退去、城に返り咲くことはなかった。以後、家康によって武田軍の侵攻に備えて、城が拡張される。現在残る本丸の大規模な土塁などはこのときのものと考えられている。

天正3年5月21日(1575年6月29日)
武田勝頼は2万5千の兵を率いて奥平信昌が約500の手勢で守る長篠城を攻め囲み、長篠の戦いが始まる。

天正4年(1576年)前年の長篠城の攻防戦で城が大きく損壊したこともあり、奥平信昌は新城城を築城、長篠城は廃城となる。

050★熱海城・天守閣風建築物

イメージ 1

■熱海城(あたみじょう)は、静岡県熱海市の錦ヶ浦山頂にある観光施設である。
熱海城という城郭は歴史的には実在しない。

熱海城は、昭和34年(1959年)に海抜100mの位置に建てられた。外観5層、内部9階の日本の城郭に見られる天守を模して造られた鉄筋コンクリート造建築であり、天守閣風建築物とよばれるものである。浅野祥雲作による金鯱を戴く天守閣からは、熱海市街、初島、大島、相模湾を一望することができる。

三方が断崖という、城郭を築くには理想的な場所であり、北条家歴代の名将たちも、築城を目指しながら果たしえなかったと伝えられる。

かっては地下に温泉施設があり、隣接する離れは宿泊棟だったが共に閉鎖され久しい。現役の展望台真下には旧い展望台がそのまま残る。

http://www.atamijyo.com/infor/index.html#1
■熱海城HP
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

★【目次2】「復元城郭模型で見る日本の名城」
http://blogs.yahoo.co.jp/katuuya2012

★製作過程は
http://blogs.yahoo.co.jp/katuuya2012/23162724.html

004★伊達政宗の仙台城/復元城郭模型

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

通称 青葉城、五城楼
城郭構造 連郭式平山城
天守構造 なし
築城主 伊達政宗
築城年 1601年
主な改修者 伊達忠宗
主な城主 伊達氏
廃城年 1871年
遺構 石垣、土塁、堀
指定文化財 国の史跡
再建造物 脇櫓
位置 北緯38度15分8.92秒
東経140度51分22.16秒

慶長年間に伊達政宗が築造してから、廃藩置県・廃城令までの約270年に渡り伊達氏代々の居城であり、仙台藩の政庁であった。国の史跡に指定されている。

伊達政宗が築城した仙台城は約2万坪で、徳川家康の江戸城に次ぐ大きさを誇り、全国最大級の城であった。

幾度となく、地震などによる損害を受けながらも修復を繰り返し、奥羽越列藩同盟盟主として戊辰戦争を経るも、一度も戦火を見ることなく要塞としての機能を終えて、その後は明治初期から大正にかけてその大半が失われた。数少ない遺構であった大手門、脇櫓、巽門は国宝(旧国宝)に指定されていたが、太平洋戦争時の仙台空襲により焼失した。現在では、宮城県知事公舎正門の建築に転用された寅の門の部材が残るのみである。

青葉山に位置することから、「青葉城」という雅称を持ち、一般的にもその名で呼ばれる事が多い。
(フリー百科事典より転記)

012★岐阜城・岐阜城信長の館(山麓の天主)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

通称 稲葉山城
城郭構造 山城
天守構造 不明・非現存
独立式望楼型3重4階(RC造復興・1956年再建)
築城主 二階堂行政
築城年 1201年(建仁元年)
主な改修者 織田信長
主な城主 斎藤氏、織田氏
廃城年 1600年(慶長5年)
遺構 曲輪、石垣、土塁、堀切
指定文化財 岐阜市指定史跡
再建造物 天守、門
位置 北緯35度26分2.66秒
東経136度46分55.97秒

織田信長時代には、山頂部には信長の家族や人質が暮らしていたことが、1569年(永禄12年)来岐した宣教師ルイス・フロイスの書簡から伺える。その構造は斎藤道三時代に遡るだろう。岐阜城は小牧城、安土城と同じく、城下町を見下ろす景観に優れる。つまり合戦のための城でなく、基本的に城主の居住空間である。

■信長・信忠時代の岐阜城
麓に天主(てんしゅ)と呼ばれる御殿があり、そこへ通じる道の両側に当時は石を積んだ塀がめぐらされて、その先の上段の「千畳敷」と呼ばれるところにその御殿があった。当時としては珍しく、南蛮様式を取り入れた4層の華麗なものであったという。宮上茂隆の説によると、京都天竜寺の僧侶である策彦周良による命名とされる。現在、御殿跡は岐阜公園の一部として整備されており、2009年現在も発掘調査が行われている。
山頂にも「てんしゅ」があり、こちらは「天守」と書いた。「天守」は池田輝政時代に改変され、岐阜城廃城及び、加納城築城によって他の建物と共に加納城へ移築されていたが、1728年(享保13年)の落雷によって焼失している。
■復興天守(初代)
1910年(明治43年)5月15日落成。木造・トタン葺き3層3階建て、高さ15.15m。日本初の観光用天守とされる。1943年(昭和18年)2月17日、失火のため焼失した。
■復興天守(再建)
1956年(昭和31年)7月25日落成。鉄筋コンクリート建築3層4階建て。延べ面積461.77m²、棟高17.7m。天守の設計は加納城御三階櫓の図面や古文書を参考に城戸久名古屋工業大学名誉教授が設計、大日本土木が施工した。再建時の『岐阜城天守閣再建設計図』の複製が岐阜県図書館に所蔵されている。
3階までは史料展示室、4階は展望台となっており、長良川や岐阜市街を一望する事が出来る。
天守の所在地は「岐阜市天主閣18」であり、「天守」ではなく「天主」表記である。なお、一部のウェブサイトでは「岐阜市金華山天守閣18」の表記も見られる。
(フリー百科事典より引用)