ウナギの病気が治りました。

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【画像1】は、これでもかなり治りかかっていた時の状態です。
一番酷かった時は体の半分くらいまで綿みたいなもので
覆われていて、たぶん死ぬと思っていました。

【画像2】は、完全に完治した状態です。約2~3ケ月の
闘病生活でした。

053★萩城 /復元城郭模型

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通称 指月城
城郭構造 梯郭式平城、山城(指月山)
天守構造 複合式望楼型5層5階(1608年築・非現存)
築城主 毛利輝元
築城年 慶長9年(1604年)
主な城主 毛利氏
廃城年 明治7年(1874年)
遺構 長屋、石垣、堀
指定文化財 国の重要文化財(厚狭毛利家長屋)
国の史跡
再建造物 土塀

日本海に張り出した指月山の詰の丸(実際は二の丸と本丸)と、その山麓に梯郭式に本丸・二の丸・三の丸を配し3重の堀を巡らした平山城であった。厳密には、指月山の詰の丸と山麓の城は独立したものであり、平山城ではなく平城と山城であるとする見解がある。また、海に突出しているため、海城であるという見方もある。

天守は複合式望楼型5層5階で、赤瓦葺で初層を天守台より大きく張り出させた張出(はりだし)という構造が採用され、最上階には外廻縁高欄や華頭窓があった。明治7年(1874年)前年に発布された廃城令により櫓など他の建物と共に破却され、石垣のみが現存している。現存していた頃の姿は解体前に撮影された古写真でのみ見ることができる。近年では破却された天守など建物の復元を行う動きがあるが、財源の問題で難しくなっている。

現在は指月公園(しづきこうえん)として整備され、旧城の入り口には旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(国の重要文化財)が現存し、松下村塾や侍屋敷などとともに萩市の観光名所となっている。また、指月山の原生林は、国の天然記念物に指定されている。

戦国時代
指月山に津和野城主・吉見氏が出城を構え、のちに吉見正頼の隠棲所となった。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで西軍総大将となった毛利輝元は敗戦により120万5000石の太守であったが隠居を命じられ、家督を継いだ秀就は防長2国36万9411石余に減封された。

江戸時代
1603年(慶長8年)幼少の秀就に代わり、輝元は後見役として萩・山口・三田尻(防府市)の3ヵ所を城地の候補とし、幕府に裁可を求めた。これに対し幕府は、海に臨み要害の地である萩が良いとの回答をしている。これは外様大名の雄、毛利氏を山陰の僻遠地に押し込める政策とも言われている。
1604年(慶長9年)萩城建造に着手。指月山に連なる干潟を埋め立て、城地を建造した。
1608年(慶長13年)落成。平時に建設された城ではあるが、指月山に詰の丸を配するなど、戦時を意識した構えとなっている。
1863年(文久3年)時の藩主・毛利敬親は幕府に無許可で藩庁を山口政事堂(山口市)に移し、萩城は藩庁としての役目を終えた。

ミヤベイワナ

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ミヤベイワナが完全に餌付けできました。
近頃は人の気配を感じると餌を要求してきます。

27年ぶりのスカイライン鉄火面・改

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先週の日曜の夜にやっていたテレビよりデジカメで撮影しました。
27年ぶりのスカイライン鉄火面・改の「西部警察」のスカイラインです。

DR30ですね♪ 桜井慎一郎の最後のスカイラインです。
懐かしく・・・つい撮影してしまいました(笑)

052★福岡城・幻の天守閣

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通称 舞鶴城、石城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 不明
築城主 黒田長政
築城年 1601年
主な改修者 黒田長溥
主な城主 黒田氏
廃城年 1871年
遺構 櫓4棟・門3棟、石垣、堀
指定文化財 国の重要文化財(多聞櫓・二の丸南隅櫓)
国の史跡
福岡県文化財(潮見櫓・大手門・
祈念櫓・母里太兵衛邸長屋門)
福岡市文化財(名島門)
再建造物 二の丸北隅櫓、大手門

慶長5年(1600年)黒田孝高・長政父子は関ヶ原の戦いの功績により豊前国中津16万石から、一躍筑前一国52万3千石を得て名島城に入城した。便宜上から名島城を廃し、福崎丘陵(現在の舞鶴公園・福岡城跡)を新城候補地に選定した。慶長6年(1601年)には築城が開始され、7年後の慶長12年(1607年)に竣工した。

江戸期に数度の改修が行われたが、特に幕末の嘉永・万延年間に大改修が行われた。

福岡城は福岡市の中心部に位置する梯郭式平山城である。普請奉行は野口佐助一成である。城地とされた福崎丘陵(那珂郡警固村福崎)は、博多と那珂川を挟んだ西側にある。主に、本丸を囲むように二の丸、その外に大きく三の丸が配され、47の櫓を配し縄張りの範囲は約25万平方メートルに及ぶ。東側に那珂川を以って堀とし、また西側の干潟「草ヶ江」を大堀として活用した。この大堀は現在大濠公園として整備されている。城下町は城の北側(博多湾側)に開かれた。

築城の際に、福崎を黒田家再興の地である備前国福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)の地名にちなみ「福岡」と改めている。

熊本の加藤清正もこの城を評価している。特に一成が指揮した石垣から、別名「石城」とも呼ばれる。

現在、城跡には門・櫓が現存し、多聞櫓とそれに続く二の丸南隅櫓は国の重要文化財に、潮見櫓・大手門・祈念櫓・母里太兵衛邸長屋門が福岡県指定文化財に、名島門が福岡市文化財にそれぞれ指定されている。また、多聞櫓に続く二の丸北隅櫓が復元されている。

051★長篠城・長篠合戦図屏風3D

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■長篠城(愛知県)
通称 末広城、扇城
城郭構造 平城
天守構造 なし
築城主 菅沼元成
築城年 永正5年(1508年)
主な改修者 奥平信昌
主な城主 菅沼氏、奥平氏
廃城年 天正4年(1576年)
遺構 曲輪、土塁、空堀、石垣
指定文化財 国の史跡(城跡の一部)

長篠城(ながしのじょう)は、三河設楽郡長篠(愛知県新城市長篠)にあった城(平城)。現在は国の史跡に指定され、城跡として整備されている。天正3年(1575年)の長篠の戦いに先立つ長篠城をめぐる激しい攻防戦で知られる。

永正5年(1508年)
今川氏親に誼を通じた菅沼元成が築城。元成と、その子孫・長篠菅沼氏が居城とする。

元亀2年(1571年)
徳川家康に服属していたが、武田軍による三河侵攻の一端で、天野景貫に攻められる。攻守双方の払った犠牲は大きかったが、陥落だけは免れた。その後、菅沼総領家・田峯菅沼氏から遣わされた使者の説得を受け、城主であった元成の直系玄孫・菅沼正貞は、心ならずも武田軍の圧力に屈した。

元亀4年(1573年)
前年末から続いていた武田軍の西上作戦が春には切り上げられ、武田軍は本国へ撤退。その間隙を徳川家康によって攻められる。城主・正貞は天正元年8月(1573年)には開城退去、城に返り咲くことはなかった。以後、家康によって武田軍の侵攻に備えて、城が拡張される。現在残る本丸の大規模な土塁などはこのときのものと考えられている。

天正3年5月21日(1575年6月29日)
武田勝頼は2万5千の兵を率いて奥平信昌が約500の手勢で守る長篠城を攻め囲み、長篠の戦いが始まる。

天正4年(1576年)前年の長篠城の攻防戦で城が大きく損壊したこともあり、奥平信昌は新城城を築城、長篠城は廃城となる。