20110429ケイト

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ケイトの結婚式を見てました。 そういえば昔、ダイアナの時も
写真を撮っていたような気もします。

もちろん雅子さんの時も・・・・

少しでも景気が良くなると良いと思う。

エサ金

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エサ金と言うのも可哀想なのだが、大型の肉食魚もいるのでエサ用の金魚や
エサ用のメダカが多数居る。水槽は60cmの水槽と30cm×2本を使っている
のですが、今回、エサ金の入荷数が多く60cmの水槽などに5ケ所に分散した。

病気にならないように注意するのが結構大変ですが・・・綺麗だなぁ♪

ミヤベイワナ

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ここのところの気温の急激な変化もあり、ミヤベイワナが2匹★になった。
水温はクーラーで温度設定はしているものの、水温が低ければ多少の水質
悪化があってもなんとかなるのだが、少しでも水温が上がってくると水質
悪化があると弱っているところでの水質悪化となり、やばい状態になる。

すぐに水の交換を行い、なんとか危機は脱出はした。

056★長浜城 /羽柴秀吉期・長浜城復元城郭模型

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通称 今浜城
城郭構造 平城
天守構造 不明(鉄筋コンクリート造模擬)
築城主 羽柴秀吉
築城年 1573年
主な改修者 伊部町組(現在の元浜町)
大工 藤岡一門  
主な城主 羽柴氏、柴田氏
山内氏(一豊系)、内藤氏(信成系)
廃城年 1615年
遺構 石垣、堀
指定文化財 なし
再建造物 模擬天守

1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。小谷城で使われていた資材や、あらかじめ、竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用し築城を開始した。

同3・4年頃完成し入城。湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した。そのため、現在でも城下町には当時の面影や名残がある。秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所でもある。 本能寺の変後、清洲会議で長浜の支配権を獲得した柴田勝家の甥の柴田勝豊が入城するも、まもなく勝家と対立した秀吉に攻められ落城した。賤ヶ岳の戦い後は、山内一豊が6年間在城し、内藤信成・信正が城主になるが1615年(元和元年)に廃城になり資材の大半は彦根城の築城に流用された。彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられている。その他、長浜市内にある大通寺の台所門は長浜城の大手門を移したものと伝えられ、今でも矢尻の跡が残っているを見ることができる。同市内にある知善院の表門は、長浜城の搦手門を移したものと伝えられている。

現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので市立長浜城歴史博物館として運営されている。

フリー百科事典より転記

ガリバー旅行記3D

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今日は公開したばかりのガリバー旅行記3Dを1人でちょっと見て
来ました。 眼鏡使用の私が3D用のメガネをかけると、二重の
メガネになってしまうので・・・3D用を上に重ねるか?3D用の
メガネの上に自分のメガネを重ねるかて゜・・・少し悩みましたが

結果的には3D用メガネの上に自分のメガネを重ねたほうがズレない
ことが判り、そんな感じで見ていました。映画は・・・・うん!面白かった。

コナンも見たい気もありましたが、興味はガリバーの方が強かった。

映画から帰ってきてからは水槽のお掃除が待っていて、120cmの水槽から
プラケースの水槽まで全部で26個ほどお掃除してました。これでも1/4ぐらい
しか掃除が出来ませんでした。正確には数えてはいませんが約100個は水槽が
あるので、1日では到底できません。

夜は今日から始まったTBSの「JIN」を2時間ほど見てて1日の終わりです。

055★諏訪高島城 /復元城郭模型

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通称 諏訪の浮城、島崎城
城郭構造 連郭式平城
天守構造 独立式望楼型3重5階(1598年築 非現存)
(1970年 RC造復興)
築城主 日根野高吉
築城年 文禄元年(1592年)
主な改修者 諏訪忠粛
主な城主 日根野氏、諏訪氏
廃城年 明治8年(1875年)
遺構 石垣、堀、門
指定文化財 なし
再建造物 天守、櫓、門、塀

★概要
かつては諏訪湖に突き出した水城で「諏訪の浮城(すわのうきしろ)」と呼ばれていたが、江戸時代初めに諏訪湖の干拓が行われ、水城の面影は失われた。しかし、浮城の異名を持っていたことから日本三大湖城の一つに数えられている。

日根野氏によって総石垣造で8棟の櫓、6棟の門、3重の天守などが建て並べられ近世城郭の体裁が整えられたが、軟弱な地盤であったため、木材を筏状に組み、その上に石を積むなどの当時の最先端技術が用いられた。それでも石垣が傷みやすく、度々補修工事を加える必要があったという。7年間の短期間で築城したため、かなり無理をしたらしく、地元では「過酷な労役に苦しんだ」「石材を確保するため、金子城の石材は全て持ち出したほか、墓石、石仏も用いられた」などの伝承が残る。

★歴史
中世、諏訪氏は現市街地北方にある茶臼山に高島城(茶臼山城)を築いて居城とした。諏訪頼忠は、平城の金子城(諏訪市中洲)を築き、新しい拠点としたが、1590年(天正18年)に諏訪頼忠が武蔵国奈良梨に転封となり、代わって日根野高吉が、茶臼山にあった旧高島城に入城する。

高吉は、1592年(文禄元年)から1598年(慶長3年)にかけて、現在の地である諏訪湖畔の高島村に新城を築く。その際村人には漁業権や賦役免除権などの特権を与える代わりに小和田へ移転させた。高吉は織田信長、豊臣秀吉の下で普請を経験していたことから、織豊系城郭として築城し、石垣を築いて天守も上げた。

1601年(慶長6年)日根野氏は下野国壬生藩に転封となり、譜代大名の諏訪頼水が2万7千石で入封。再び諏訪氏がこの地の領主となり明治維新まで続くこととなった。江戸時代は諏訪藩の政庁であり藩主の居所であった。1786年(天明6年)に石垣などが補修されている。

寛永3年(1626年)には徳川家康六男の松平忠輝を預かる。南の丸を増設し、監禁場所とした。以降も南の丸は、幕府から預かった吉良義周などの流人の監禁場所となる。

1871年(明治4年)廃藩置県により高島県となり、県庁舎として利用された。1875年(明治8年)に天守以下建造物は破却もしくは移築され、一時は石垣と堀のみとなり、翌1876年(明治9年)高島公園として一般に開放され、1900年(明治33年)に諏訪護國神社が建てられる。

現在は二の丸、三の丸が宅地となり、1970年(昭和45年)には本丸に天守・櫓・門・塀が復元され、高島公園として整備された。

★建物:天守
天守は独立式望楼型3重5階で、明治初頭に撮影された写真にその姿がうかがえる。初重を入母屋の大屋根とし2重の望楼がのせられた形状で、2重目の東西面に入母屋破風出窓、3重目には南北面に華頭窓をもつ切妻破風出窓と東西面に外高欄縁が設けられた。各所に華頭窓が用いられ、屋根は瓦葺ではなく檜の薄い板を葺く柿葺であった。

現在の復興天守は窓の大きさや位置などの細部が異なり、屋根には銅板が葺かれており、内部は資料館となっている。

★遺構:二の丸三の丸は開発の手が入ったが、本丸は高島公園として整備され、本丸の石垣および北側と東側の堀が残る。

建造物としては、三の丸にあった城門が本丸に、どこの門か定かではないが温泉寺および浄光寺の山門として、それぞれ移築現存する。また、能舞台が温泉寺本堂の一部として移築されている。

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054★佐倉城 /復元城郭模型

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通称 鹿島城
城郭構造 連郭式平山城
天守構造 御三階櫓(独立式層塔型3重4階 1616年 非現存)
築城主 鹿島親幹
築城年 天文年間か
主な改修者 千葉邦胤、土井利勝
主な城主 鹿島親幹、千葉邦胤
土井利勝、堀田氏
廃城年 1873年(明治6年)
遺構 堀、土塁
指定文化財 佐倉市史跡

佐倉城は、鹿島山の西端部に築かれ、西側と南側を囲みこむように鹿島川とそれに合流する高崎川が流れ北側には印旛沼に至る低湿地が広がっていた。 戦国時代、本佐倉城主千葉親胤が大叔父にあたる鹿島幹胤に命じて築城を開始したが、親胤が暗殺されたために工事は中止され、千葉邦胤の代にも工事が試みられたものの今度も邦胤の暗殺によって完成することはなかった。だが、いつしか築城予定地には鹿島親幹にちなんで「鹿島台」と呼ばれるようになったという。

1610年(慶長15年)に、徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城が再開され、ついに佐倉城が完成した。江戸時代は佐倉藩の藩庁が置かれた。城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、なおかつ初期は城主の入れ替わりが多く、江戸初期に城主であった堀田正信(後に改易されている)の弟・堀田正俊の孫・堀田正亮が11万石で再入封(後期堀田氏ともいう)してからは、安定した藩の経営を行っている。

城郭は比較的質素で石垣を一切用いず、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にし、三重櫓(御三階櫓)を天守の代用としている。このようなケースは関東地方を領した、要衝を預かる城郭を除き、川越城や古河城などの譜代各藩の城にみられた。

しかし明治維新後に廃城令により建物を撤去。その後帝国陸軍歩兵第2連隊、後に歩兵第57連隊(通称・佐倉連隊)の駐屯地となったため、更に佐倉城の名残は消し去られてしまった。1962年(昭和37年)3月28日市の史跡に指定され、現在は跡地に佐倉城址公園が建てられており、その一区画に国立歴史民俗博物館が建っている。

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