056★長浜城 /羽柴秀吉期・長浜城復元城郭模型

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通称 今浜城
城郭構造 平城
天守構造 不明(鉄筋コンクリート造模擬)
築城主 羽柴秀吉
築城年 1573年
主な改修者 伊部町組(現在の元浜町)
大工 藤岡一門  
主な城主 羽柴氏、柴田氏
山内氏(一豊系)、内藤氏(信成系)
廃城年 1615年
遺構 石垣、堀
指定文化財 なし
再建造物 模擬天守

1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。小谷城で使われていた資材や、あらかじめ、竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用し築城を開始した。

同3・4年頃完成し入城。湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した。そのため、現在でも城下町には当時の面影や名残がある。秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所でもある。 本能寺の変後、清洲会議で長浜の支配権を獲得した柴田勝家の甥の柴田勝豊が入城するも、まもなく勝家と対立した秀吉に攻められ落城した。賤ヶ岳の戦い後は、山内一豊が6年間在城し、内藤信成・信正が城主になるが1615年(元和元年)に廃城になり資材の大半は彦根城の築城に流用された。彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられている。その他、長浜市内にある大通寺の台所門は長浜城の大手門を移したものと伝えられ、今でも矢尻の跡が残っているを見ることができる。同市内にある知善院の表門は、長浜城の搦手門を移したものと伝えられている。

現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので市立長浜城歴史博物館として運営されている。

フリー百科事典より転記

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