053★萩城 /復元城郭模型

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通称 指月城
城郭構造 梯郭式平城、山城(指月山)
天守構造 複合式望楼型5層5階(1608年築・非現存)
築城主 毛利輝元
築城年 慶長9年(1604年)
主な城主 毛利氏
廃城年 明治7年(1874年)
遺構 長屋、石垣、堀
指定文化財 国の重要文化財(厚狭毛利家長屋)
国の史跡
再建造物 土塀

日本海に張り出した指月山の詰の丸(実際は二の丸と本丸)と、その山麓に梯郭式に本丸・二の丸・三の丸を配し3重の堀を巡らした平山城であった。厳密には、指月山の詰の丸と山麓の城は独立したものであり、平山城ではなく平城と山城であるとする見解がある。また、海に突出しているため、海城であるという見方もある。

天守は複合式望楼型5層5階で、赤瓦葺で初層を天守台より大きく張り出させた張出(はりだし)という構造が採用され、最上階には外廻縁高欄や華頭窓があった。明治7年(1874年)前年に発布された廃城令により櫓など他の建物と共に破却され、石垣のみが現存している。現存していた頃の姿は解体前に撮影された古写真でのみ見ることができる。近年では破却された天守など建物の復元を行う動きがあるが、財源の問題で難しくなっている。

現在は指月公園(しづきこうえん)として整備され、旧城の入り口には旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(国の重要文化財)が現存し、松下村塾や侍屋敷などとともに萩市の観光名所となっている。また、指月山の原生林は、国の天然記念物に指定されている。

戦国時代
指月山に津和野城主・吉見氏が出城を構え、のちに吉見正頼の隠棲所となった。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで西軍総大将となった毛利輝元は敗戦により120万5000石の太守であったが隠居を命じられ、家督を継いだ秀就は防長2国36万9411石余に減封された。

江戸時代
1603年(慶長8年)幼少の秀就に代わり、輝元は後見役として萩・山口・三田尻(防府市)の3ヵ所を城地の候補とし、幕府に裁可を求めた。これに対し幕府は、海に臨み要害の地である萩が良いとの回答をしている。これは外様大名の雄、毛利氏を山陰の僻遠地に押し込める政策とも言われている。
1604年(慶長9年)萩城建造に着手。指月山に連なる干潟を埋め立て、城地を建造した。
1608年(慶長13年)落成。平時に建設された城ではあるが、指月山に詰の丸を配するなど、戦時を意識した構えとなっている。
1863年(文久3年)時の藩主・毛利敬親は幕府に無許可で藩庁を山口政事堂(山口市)に移し、萩城は藩庁としての役目を終えた。

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