012★岐阜城・岐阜城信長の館(山麓の天主)

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通称 稲葉山城
城郭構造 山城
天守構造 不明・非現存
独立式望楼型3重4階(RC造復興・1956年再建)
築城主 二階堂行政
築城年 1201年(建仁元年)
主な改修者 織田信長
主な城主 斎藤氏、織田氏
廃城年 1600年(慶長5年)
遺構 曲輪、石垣、土塁、堀切
指定文化財 岐阜市指定史跡
再建造物 天守、門
位置 北緯35度26分2.66秒
東経136度46分55.97秒

織田信長時代には、山頂部には信長の家族や人質が暮らしていたことが、1569年(永禄12年)来岐した宣教師ルイス・フロイスの書簡から伺える。その構造は斎藤道三時代に遡るだろう。岐阜城は小牧城、安土城と同じく、城下町を見下ろす景観に優れる。つまり合戦のための城でなく、基本的に城主の居住空間である。

■信長・信忠時代の岐阜城
麓に天主(てんしゅ)と呼ばれる御殿があり、そこへ通じる道の両側に当時は石を積んだ塀がめぐらされて、その先の上段の「千畳敷」と呼ばれるところにその御殿があった。当時としては珍しく、南蛮様式を取り入れた4層の華麗なものであったという。宮上茂隆の説によると、京都天竜寺の僧侶である策彦周良による命名とされる。現在、御殿跡は岐阜公園の一部として整備されており、2009年現在も発掘調査が行われている。
山頂にも「てんしゅ」があり、こちらは「天守」と書いた。「天守」は池田輝政時代に改変され、岐阜城廃城及び、加納城築城によって他の建物と共に加納城へ移築されていたが、1728年(享保13年)の落雷によって焼失している。
■復興天守(初代)
1910年(明治43年)5月15日落成。木造・トタン葺き3層3階建て、高さ15.15m。日本初の観光用天守とされる。1943年(昭和18年)2月17日、失火のため焼失した。
■復興天守(再建)
1956年(昭和31年)7月25日落成。鉄筋コンクリート建築3層4階建て。延べ面積461.77m²、棟高17.7m。天守の設計は加納城御三階櫓の図面や古文書を参考に城戸久名古屋工業大学名誉教授が設計、大日本土木が施工した。再建時の『岐阜城天守閣再建設計図』の複製が岐阜県図書館に所蔵されている。
3階までは史料展示室、4階は展望台となっており、長良川や岐阜市街を一望する事が出来る。
天守の所在地は「岐阜市天主閣18」であり、「天守」ではなく「天主」表記である。なお、一部のウェブサイトでは「岐阜市金華山天守閣18」の表記も見られる。
(フリー百科事典より引用)

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